ヘミシンク的


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右と左のスピーカーから微妙に違う周波数の音を流すと、その間の周波数が脳波に同調する。

それをバイノーラルビートと謂うのだが、場合によっては体外離脱する事もあるそうだ。

どの周波数がどの脳波に呼応しているのかは、研究機関によって研究されており、その一部の技術がヘミシンクというCDで体験出来るのである。

実は数年前からそのヘミシンクをやっているのだが、奇妙なヴィジョンを何度も体験した。

この経験を通して思ったのは、肉体とは入れ物に過ぎず、意識が人間の本質であるという事。

もっと言えば、この世における人間の肉体や精神は受信機のようなモノであり、チャンネルを変えればこの世で見聞きしているヴィジョンとは全く違うヴィジョンが見えてくるのではないかと。

かもめのジョナサンで描かれている世界は、このヘミシンクで得られるヴィジョンに酷似している。

大袈裟に言えば、人類の次の進化のカギはヘミシンクにあるのでは。

その意味で言うと解説の五木寛之が、散文的、比喩的解釈からこの作品に違和感を表明しているのは少し的外れな気がした。

 

純文学の王道

中上健次 選集1 「枯木灘 覇王の七日」小学館文庫
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 読んでから少し時間が立ったので、印象が散漫になってしまった。

この物語は「血」と「地」を巡る物語である。

主人公の秋幸を中心とした一種のサーガである。

和歌山の山あいの閉鎖的な田舎町のどこか不穏な空気が全体に漂っており、その緊張感が最後まで切れる事なく持続している所が、この小説を特別なモノにしている。

秋幸の実父の龍造は、この土地で悪行をなし、刑務所から戻って来ると更なる悪徳でもって、やがて覇王へとのし上がる。

秋幸は「血」の因果の軌跡を過去に求めたり、未来に向けてみたりするのだが、やがて残酷な現代に目を向けざるを得ない事に苛立ちを覚える様になる。

異父兄姉との禁忌や龍造の実子との対立は、秋幸の固有の物語に混迷をもたらすばかりで、簡単にカタルシスを得る事を許さない。

この小説を読む者はそのカタルシスの無さ、重苦しさに付き合わざるを得ないのだが、もう一つの特徴として脇役的な人物達にも芳醇な物語があり、そっちを軸として読めばまた違った楽しみ方が得られるだろう。

何度もリリードする事で深味を増すストレートな純文学である。